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招き猫の発祥の地

西方寺

西方寺は、東京都豊島区の寺院。
寺院が密集している巣鴨地区にありました。

 

西方寺

 

・東京都豊島区西巣鴨4丁目8
・西方寺も大通りからちょっと奥まったところで、たくさん並んだお寺の中にありました。

 

行ったときはお寺がなかなか見つからずしばし歩き回りました。

 

明暦の頃(1655〜1657)に道哲という念仏僧が草庵を結んだのが始まりとされています。
別名・道哲寺と呼ばれ、吉原に至る日本堤にあることから、土手の道哲としても知られていたようです。
 西方寺は、かつての投げ込み寺(なげこみでら)の一つ。
投げ込み寺とは、寺に身よりのない遊女などの遺体が放り込まれたことからそれらの寺についた俗称だそうです。

 

寺では遺体を無縁仏として葬ったといいます。

 

西方寺

 

豪徳寺と並び、招き猫発祥の地のひとつとされています。

 

資料をを調べていると、
「門柱に石製の招き猫が座っていますが、これは大正5年の移築の際に置かれたといわれています。」
とありましたが、しかし・・・行ってみるとそのようなものは無く、後日他のサイトから昔はあったが今は移動したようだとの記事をみつけました。
門柱にあったという招き猫も拝観したかったです。残念

 

また西方寺は関東大震災の際に猫塚は焼けてしまって浅草から現在の巣鴨に移ったそうです。

 

西方寺の招き猫説

 

猫をとても可愛がっていた薄雲太夫という名前の、吉原の花魁にまつわる言い伝えがあります。

 

あるとき太夫が厠に行こうとすると、猫が太夫の着物の裾をつかんで離さなかった、その時の猫が、あまりにも恐ろしい形相だったので、恐ろしくなった太夫が助けを呼ぶと、駆けつけた楼主はすぐさま脇差を抜いて猫の首を切り落としてしまった。すると切られた猫の首は厠の下に飛んでいき、そこに隠れて、いまにも太夫に飛び掛ろうとしていた大蛇に食らい付き、見事噛み殺したというのだ。
つまりその猫は「蛇がいるからそっちへ行くな」と太夫の裾をつかんでいたっていうわけです。
自分を救おうとした猫を殺してしまったことを太夫はとても後悔したようで、西方寺に猫塚をつくり招き猫の像を祀ったのだとか。

 

ちなみに、この薄雲太夫は元禄年間(1688〜1704)に 実在した長野県坂城町出身の遊女で、 江戸新吉原京町一丁目の三浦屋に席を置き大の猫好きで、飼い猫(名前は「玉」)とともに描かれた 浮世絵も数多く残っているそうです。

 

さまざまなサイトや資料を見てもこのタマが「招いた」という描写はみあたりません。
由来は上の通りですが、お寺の周辺には特別招き猫絡みの看板などもありません。
なぜこのお寺が招き猫発祥の地といわれるのか謎が残りました。

 

西方寺境内

 

西方寺には、この薄雲太夫の墓を守るように猫の像があるということで、境内を探し回りましたがそれらしきものがありません。

 

薄雲太夫の墓
歩き疲れ丁度掃除に現れたお坊さんに尋ねると、場所は墓地の奥の方。
ひっそりと隠れるようにありました。

 

墓を守る招き猫
招き猫は墓を守るように鎮座していました。

 

かなり風化している招き猫像
見てのとおり招く腕がもう欠けていたり、かなり風化したようです。
下手に触ると崩壊してしまいそう。

 

高尾の墓
薄雲太夫というのは2代目万治高尾太夫のこと?
墓には「万治高尾之墓」とあります。

 

あれれ?と思いつつ・・いろいろ資料をみるも猫に助けられたのは薄雲太夫となっています。
ここらへんの解釈が歴史に疎い者としては気になるもよくわからないところ。

 

悩んでてもしかたないので次のお寺へ向かいました。

 

豪徳寺の猫が右手をあげているのに対し、西方寺の猫は左手をあげています(今は欠けてないのですが)。

 

   

 

 

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